ギリシア悲劇を舞台で観たい!
調べてみましたが、あまりやっていません。
2024年に新国立劇場で『テーバイ』というお芝居があり、ソポクレスが書いた3部作を再構成したものが演じられたようです。
観たかったなあ・・・もう一度やらないかな。
その3部作とは、『オイディプス王』『コロノスのオイディプス』『アンティゴネ』です。
25年ぶりにこれらの戯曲を読みました。
『オイディプス王』
先王の死後、スフィンクスの謎を解いてテーバイ王となったオイディプス。先王を殺した犯人を見つけるよう部下に指示します。調べていく中で、自分がかつて放浪の身であるときに殺した相手が先王だったことが判明します。
実は自分は先王の子どもであることもわかってきます。「男児が生まれたら、その子が父を殺すだろう」という神託があった先王は、生まれたオイディプスを部下に捨てさせました。オイディプスが成長したとき、神から「故郷に戻るな。父を殺し、母をめとるだろう」と言われます。それを避けるために放浪していたときに、喧嘩になって殺した相手が先王(実の父)だったのです。オイディプスが王になるとき、先王の妃(実の母)をめとり、子どもができます。
この事実が判明したとき、実の母である妃は自害。オイディプスは自暴自棄になり自分の両目を潰して盲目になり王から退きます。
ややこしい筋書きですが、とても面白い。
自分のせいでもないのに、背後にある運命に翻弄されてオイディプスの人生はボロボロになる。
人がコントロールできないことが世の中にはあるのだ、ということを教えられます。
読後感は、「オイディプスがかわいそう・・・」でした。
『コロノスのオイディプス』
老いたオイディプスは娘のアンティゴネと共に放浪の旅に出ます。アテナイへ入り、王であるテセウスに受け入れてもらいます。テーバイから戻ってきて欲しいという要請がありますが、オイディプスは自分を無慈悲に追放したテーバイへ不信感があり拒否します。アテナイ王テセウスは、オイディプスとアンティゴネを守ります。そして、オイディプスの寿命が尽きたとき、テセウスは丁重にオイディプスを埋葬します。
この話では、オイディプスが自分の運命を背負い、それを受け入れている様が表現されています。
王だった自分が、運命に翻弄され、王から退き、身内からも邪険に扱われた過去がある。
その苦しい人生を受け入れて生きている姿に、テセウスは敬意を持ったのではないかと思います。
また、オイディプスにはアンティゴネという自分を支えてくれる娘がいました。
苦難の人生だったけど、最終的にはアンティゴネの愛情とテセウスの敬意でもってこの世を去る。
読後感は、「やっとオイディプスが救われた」とホッとしました。
『アンティゴネ』
アンティゴネには2人の兄がいました。弟の方がオイディプスから王を引き継ぎますが、兄と仲違いします。兄弟で戦うところまで発展しお互い刺し違え死にます。王を引き継いだ叔父のクレオンは謀反を起こした兄の死体を葬らずに道端へ放っておくよう命令します。アンティゴネは国の法を犯し、兄を埋葬します。これに怒ったクレオンはアンティゴネを捕まえ牢屋に入れます。アンティゴネは自害します。
この話では、「正しさとは何か?」が問われます。
謀反を起こした者に対して厳しくしたクレオンの気持ちも理解できますし、法をつくったからにはそれを守らない者を裁かないといけないことも理解できる。
一方、アンティゴネは肉親の亡骸を放っておくことはできず、しっかり埋葬したいという思いが強いため王に楯突いた・・・これも理解できます。
最後にコロスの台詞で終わります。
慮りをもつというのは、仕合せの
何よりも大切な基、また神々に対する務めは、
けしてなおざりにしてはならない、傲りたかぶる
人々の大言壮語は、やがてはひどい打撃を身に受け、その罪を償いおえて、
年老いてから慮りを学ぶが習いと。
- 『アンティゴネ』呉茂一訳/『ギリシア悲劇II』(ちくま文庫)より
慮り(おもんばかり)がないために、大きくつまずき、しっぺ返しを喰らう。
慮りの大切さを学ぶのは罪を償ったあと、年老いてからだと。
考えさせられる台詞です。
相手には相手の価値観があり、見ている独自の枠があり、それを通して物事を見ている。
そのことに思いを馳せずに自分の枠だけで物事を捉えようとすると、対立へと発展してしまう。
日常生活でもあることです。
お互いどういった枠を持っているかを理解し合うための対話をしていくことが欠かせないと感じました。
とくに指導者の立場にある人間は、これを肝に銘じておかないといけない。
古典として残る作品には、残るだけの理由がありますね。
次は、ギリシア悲劇を舞台で感じたい!
