『エネルギーの人類史 下』(バーツラフ・シュミル著/青土社)

エネルギーに関する人類史。
上下巻あるうちの下巻です。
下巻では、化石燃料を中心に、人類がどのようにエネルギーを利用してきたかが詳細に書かれています。
エネルギーがいかに人類にとって重要な要素であるかが、これでもかというくらい伝わってきます。
「文明の進歩とは、エネルギー利用をできるだけ高めようとする追求のことであり、その増えたエネルギーを使って、より多くの食料を収穫し、より高い出力と多様な素材を動員し、より多くの、より多様な品物を製造し、より速い移動を実現し、そして無限にも近い情報量へのアクセスを可能にしようというのである。」(p.267)
著者はこのエネルギー使用が5つの影響を世界にもたらしたと指摘します。
- 都市化
- 生活の質
- 政治的影響
- 兵器と戦争
- 環境の変化
そして、こう指摘します。
「近代の複雑な人間社会では、エネルギー利用は明らかに身体的な必要性の問題を超え、それよりもはるかに欲望や誇示の問題になっている。」(p.341)
この「欲望」、「誇示」というところが興味深いです。
エネルギーのおかげで生活の質は上がりましたが、必要以上にエネルギーを使用しているところもあります。
そういう国がある一方で、最低限のエネルギーが確保できていない国もある。
化石燃料使用による地球温暖化の問題があっても、気持ち的にすんなり脱炭素へ移行できない面もある。
人の持つ「欲望」や「誇示」というところが複雑に絡んでいます。
エネルギーがあるおかげで技術も発展します。
ただ、こういう見方もできます。
「この世界は、私たちに未曾有の利益と奇跡的なまでの自由を与えてくれているが、その見返りとして、近代社会はこの世界に適応しなければならないばかりか、この世界の定める規則と限界にしたがうことも求められているのである。いまや誰もがこうした技術に依存しているが、技術をまるごと理解している人はひとりもいない。私たちはただ、技術の定めるところにしたがって毎日を送っているだけだ。」(p.328)
この文章が印象に残りました。
我々の便利な生活の基礎にはエネルギーがあり、その便利な生活を支えるたくさんの技術に囲まれています。
でも、実は我々はこの技術に「使われている」だけかもしれない。
自分たちを技術に合わせないといけなくなっているのではないか。
人の意思も一定の規律の中に押し込まれてしまっている世の中になっているかもしれない。
そう考えると、皮肉というか、やるせないというか。
エネルギーの多さが「豊かさ」とは必ずしも直結しないと著者は言います。
「エネルギー使用が高まっても、必ずしも食料供給が安定するわけではなく(中略)、戦略的な安全保障が得られるわけでもなく(中略)、政治的安定が安全に確保されるわけでもなく(中略)、政権が英明になっていくわけでもなく(中略)、国の生活水準があまねく向上するわけでもない」(p.354)
ということは、我々はやり方しだいでエネルギーの賢い使い方を考え、環境破壊を避け、今ある高度文明を持続していくことは可能ではないか。
そして、著者は最後にこう言います。
「必要なのは、自ら変化に関わることだ。」(p.359)
深さと広さがあり、読後に何か大事なものが心に残る。
そういう本でした。
