木蓮の花が黄色く光る朝だった。
家から徒歩20分のスーパーからの帰りに下り坂を降りていると、あちらの方から腰がゆるやかに曲がったおばあさんが歩いてきた。
90歳くらいだろうか、濃い紺色のジャケットに、肩からは背丈ほどあろうかと思えるくらい長い紐のついた虎色の小さなハンドバッグをぶら下げている。
こちらに向かってくる。
毎週土曜日の午前中にきまって聞いているニュースのポッドキャストから意識を戻し、左耳のイヤホンを外して腰をかがめ首を傾ける。
「たいしょうごとの本部がどこかわかりますか?」
「え? もう一度お願いします」
「たいしょうごとの本部がこのへんにあるんですが、どっち行っていいかわからなくて」
「たいしょうごとですか?」
漢字変換できない言葉に時が止まった気がした。
「琴です。3年前にも来たのですが、バス停を降りたらわかるだろうと思ったのですが、わからなくなってしまって」
「すみません、ちょっとわからないです。あ、待ってくださいね、スマホで調べてみますね」
地図アプリに「たいしょう 琴」と入力すると、「大正琴」の建物が表示される。
このへんにそういう施設があるんだなと思いながら、坂の上を指差し「あの信号を右に曲がると見えてきますよ」と言い、おばあさんを見送った。
イヤホンを耳に戻し、朝から良いことしたと嬉しい気持ちで高架下の冷えた場所で信号を待っていると、「16」の文字が浮かんできた。
16号ってあっちだったっけか、いや、16号はこっちだよな。
地図を確認すると立っている近くに大正琴の施設が表示されている。
やばい。
両手に持った買い物袋を肘の高さまで持ち上げ、大急ぎで戻った。
3分くらい前だからそこまで遠くには行っていないはずだ。
坂の下までくると、上の方に小さなうしろ姿が見えた。
あんなに歩くのが早いのかと思いながら、久しく走っていない身体を動かして背中を追う。
買い物袋を2つ持った中年男が走っている姿は滑稽だったろう。
追いついたとき、おばあさんはバス停で待っている親子に道を聞いているところであった。
紺色の背中にそっと触れ「すみません、間違っていました。あっちでした」と声を掛け、この親子からは不審者だと疑われるだろうなと思いつつ、親子には目線を投げず、おばあさんを連れ去るように来た道を引き返した。
「大正琴の合同稽古があるんです。楽器は先生が車で運んでくれるので私は楽譜だけ持ってくればよくて」
「何人くらいが集まるんですか?」
「どうだろう、30人くらいかな。発表会のときはNHKホールでやるから、全国から何百人って集まるんです」
「そうですか。ほんと歩かせてしまってすみませんね」
「いつもたくさん歩いているから大丈夫です」
『大正琴 初心者歓迎』の看板が見えてきた。
「ああ、着いてよかった。ご丁寧にありがとうございました」
肩から下げたハンドバックを地面に引き摺りながら、ゆっくりと、おばあさんは建物へ入っていった。
私はイヤホンをつけずに家まで歩いて帰った。
