『詩学』(アリストテレス著/三浦洋訳/光文社古典新訳文庫/2019年)

優れた悲劇には「カタルシス(浄化)」が生じるとアリストテレスはいいます。
「憐れみ」と「怖れ」の感情を伴います。
「『憐れみ』とは、不幸になるにふさわしくないのに不幸になった[優れた]人物に対して起こるもの(中略)、『怖れ』とは、私たちと似たような人物が不幸になった場合に[同じ不幸が自分を襲うかもしれないと感じて]起こるもの」(p. 92)
高貴な人物である主人公が不幸に陥ると憐れみの感情が生じ、その人物と似ている部分が見出されたとき、観客は自分でも同じことが起きるかもしれないという怖れを感じるということです。
こういった悲劇をアリストテレスは理想に置いたようです。
典型例は、『オイディプス王』です。
私の好きな戯曲『リチャード三世』を当てはめてみました。
主人公のリチャードは自分(観客側)より身分が高いとはいえます。
ただ、悪人であるため、不幸になっても観客として憐れみの感情は出てきません。
逆にスカッとする。
リチャードと私の間で似たような部分も見出しづらく、怖れの感情も出てこない。
一方で、リチャードが誘惑する未亡人アンには憐れみを感じます。
粛清されていく人物たちを観ていると、怖れの感情も出てきます。
つまり、主人公であるリチャードには憐れみも怖れも感じづらい作品であると捉えていいのではないかと思います。
アリストテレスの考え方からすると、『リチャード三世』は「優れた悲劇」から逸脱したものになるのでしょう。
他にもどういった作品がアリストテレス的カタルシスに当てはまるのか考えてみましたが、日常的に触れている映画やドラマはほとんどこのタイプではなさそうです。
となると、私たちは「浄化」という体験はあまりできていないのかもしれません。
確かに、映画を見て心も揺さぶられるし、悲しくもなるし、スカッともする。
これはアリストテレス的な浄化とは違う。
いったい浄化とはなんなのだろうか。
劇作家ブレヒトはカタルシス(浄化)に異を唱えたということで知られています。
どういった点で批判し、作品を作り上げたのか。
浄化を理解するために、ブレヒトの作品を見ていこうと考えています。
