11:00の表示を合図に、鍵、スマホ、イヤホンを手に取り家を出る。
車があまり通らない道沿いに小さな平屋がある。
玄関の前には横に伸びた手すりがあり、そこには「反対!」の垂れ幕がかかっている。
隣の葬儀屋への抗議のようだ。
90後半くらいの浅黒いおばあさんが、一人で住んでおり、いつも玄関先に座っている。
道路の反対側には大きなマンションがあり、車道から1段高くなっている歩道との間に花壇が並んでいる。
外を歩くのも嫌になる猛暑の日だった。
日陰になっている歩道を歩いていくと、花壇ブロックに座布団を敷いて涼んでいるおばあさんがいた。
歩道の幅は2人が並んで通れるほどしかなく、おばあさんの目の前を通り過ぎるのが気まずかったため、車道の反対側へと渡ることにした。
「ほらほら、こっちの涼しいところを通りなさい、そっちは暑いわよ」
他の人も同じように歩道から車道へ下りるのだろう、何遍もこのフレーズを言っているに違いない。
日向ぼっこをしているおばあさんの前を通り過ぎるときは、ポッドキャストを聞いているため挨拶せずに通り過ぎるのだが、声を掛けずに目の前を通るのも失礼な気がしてしまうため、できるだけおばあさんが座っていない側を歩くようにしている。
何かの拍子でおばあさんの視界に足を踏み入れざるを得ないときには、イヤホンをオフにし、声を掛けられても返事ができるように準備しておく。
声を掛けられたのは夏の日の1回しかない。
いや、数年前だったか、距離を取ろうとしたときに笑顔で「噛みつかないわよ」と言われたので2回だ。
寒い季節は日向ぼっこもお休みである。
手荷物検査でゲートをくぐるような緊張感はなくなるが、寂しさはある。
スーパーへ行く姿を見かけたり家の窓が開いていたりすると安心する。
1ヶ月ほど前からだろうか、おばあさんを見かけなくなった。
家の窓も閉まっている。
2週間前に通ったときは「反対!」の垂れ幕がなくなっていた。
数日後、別の場所で腰が軽く曲がった90近いおばあさんに道を尋ねられた。
私の耳はイヤホンで塞がっていた。
スマホで調べたものの間違った方向を案内してしまい、慌てて戻り、目的地までお連れした。
2日後は春らしい晴れであった。
近くのスーパーの前で、日向ぼっこのおばあさんが杖をついているのを目にした。
普段は杖を持っていなかったなと思いながら、明るい色の服を着たおばあさんがお店に入っていくのを見たとき、思わず左耳のイヤホンを外していた。
玄関の前を通ると、周りの動きを気にしないでたたずむ猫のように、垂れ幕が風になびいていた。
