『向田邦子ベスト・エッセイ』(向田邦子著/筑摩書房/2020年)

お恥ずかしながら、エッセイというものをはじめて読みました。
なぜこんなに話が飛ぶのか。
今まで「主張→根拠→まとめ」のような小論文のような形のものばかり読んできました。
向田邦子さんのエッセイを読んでいると、話が急に飛ぶのですが、さいごは円を描くように包み込んでいく感じがある。
友人にこのことを話すと、「それがエッセイだよ。そんなこと知らないで今まで生きてきたの」とあきれられました。
旅も恋も、そのときもたのしいが、反芻はもっとたのしいのである。ところで、草を反芻している牛は、やはり、その草を食べたときのことを思い出しながら口を動かしているものであろうか。
(p. 254 / 「反芻旅行」)
エッセイの締めの文章です。
お母さんが香港に旅行したあとテレビに香港が出ると食い入るように見ていたというエピソードを交え、一度でも行った国のことは帰ってきてからも気になるものであり、そのときのことを振り返ることが楽しいと書いている。
「ところで、草を反芻している牛は・・・」
−− こうくるか。
「ままや」という小料理店をオープンさせたときのこと。
自分はオーナーとなり、お店を妹に任せている。
最後の締めの文章。
それにしても、夜原稿を書いていて店が気になって仕方がない。雨の日は特にそうである。ホステスとして出勤しようかなとウズウズする。ベンチを出たり入ったりする長嶋監督の気持ちがよく判るようになった。
(p. 302 / 「「ままや」繁昌記」)
笑わそうと思っていないユーモアが良い。
私が演劇を学んでいるとき、「sense of humor(ユーモアのセンス)」という言葉をよく耳にしました。
「おまえの演技はsense of humorがあるよ」
笑わそうとしていなくても、言葉遣い、間、タイミング、反応の仕方でユーモアがにじみ出てくる。
「ある人にはあるし、ない人にはない」って演技の先生は言っていました。
ちなみに、私が一番好きな俳優アル・パチーノの演技にはsense of humorがあります。
レジェンドになっているくらいなので、ないわけはないのですが、当時からsense of humorがあるなあって思って見ていました。
シリアスな場面でも、どことなく可笑しみがにじみ出てきて、それが魅力になる。
向田邦子さんの文章にもsense of humorを感じます。
極め付けはこれです。
「犬の銀行」の冒頭:
向田鉄。 こう書くと、まるで私の弟みたいだが、レッキとした犬の名前である。 (p. 149 / 「犬の銀行」)
何年も前の記憶は自分の中で固定化されてしまうもの。
長い間、開かない抽斗(ひきだし)に閉じ込めておいた古い変色した写真を取り出して、加筆修整をしなくてはならないのだが、不思議なことに、記憶というのはシャッターと同じで、一度、パシャッと焼きついてしまうと、水で洗おうとリタッチしようと変えることが出来ないのである。
(p. 188 / 「新宿のライオン」)
大学時代の友人がたまにこんなことを言うのです。
「あれにはびっくりしたよ。一緒に将棋をやっていて俺に勝てないと、『孫子の兵法』を読んで研究し出したもんね」
はじめは冗談かと思っていたのですが、ことあるごとに話しているので本当にそうだと思っているらしい。
私はいまだにその本を読んだことがありません。
向田邦子という人は何を大事にして生きたのだろうか。
花を活けてみると、枝を矯(た)めることがいかにむつかしいかよく判ります。折らないように細心の注意をはらい、長い時間をかけて少しずつ枝の向きを直しても、ちょっと気をぬくと、そして時間がたつと、枝は、人間のおごりをあざ笑うように天然自然の枝ぶりにもどってしまうのです。よしんば、その枝ぶりが、あまり上等の美しい枝ぶりといえなくとも、人はその枝ぶりを活かして、それなりに生きてゆくほうが本当なのではないか、と思ったのです。
(p. 359 / 「手袋をさがす」)
先日スペイン画家ゴヤの美術展で見た解説パネルに、ゴヤが王侯貴族に気に入られようとする生き方をやめ、自分であることに決めてから「天才が光り始めた」と書いてありました。
自分にとっての「枝ぶり」とは何なのか。
それを活かしていくのだと決心できる人がどのくらいいるのだろうか。
読んでいて楽しい、親近感もわく、文章表現も勉強になる、考えさせられる、そして笑える。
快眠の処方箋です。
