『志賀直哉の短編小説を読み直す』(島村輝著/かもがわ出版/2021年)

いやいやいや、それってこじつけじゃない?
そういう思いを持ちながら本書を読みました。
志賀直哉の短編『小僧の神様』『城の崎にて』『焚火』『真鶴』を著者の視点で解説しています。
「どうも一見すると現実批判とは縁遠いように思われる志賀の作品なのですが、その根底には、われわれがちょっと見ただけでは気がつかない、神話や民俗学的な伝承に根差した、深いところにある根源的な社会批判を読み取るということができるのではないか、と私は考えています。」(p. 9)
たとえば『小僧の神様』の解釈では、反伊勢神道である神田明神のある神田エリアに住む仙吉は神に守られている存在で、貴族議員Aは天皇側(伊勢側)となり対立構造があると。
鮨は大黒様(米)と恵比須様(魚)をあらわしており、かつ「旨」は神からの言付けである。
仙吉は秤屋に奉公していますが、そこはコメを公平に分配する場所でもあり、鮨を食べられない仙吉と食べられる先輩との不公平さのなかで、神が仙吉に鮨を食べさせようとはからう構図になっているというのです。
A(あの客)に鮨をご馳走になった仙吉(小僧)。
作品では最後に「作者」がコメントする形で終わります。
作者は此処で筆を擱(お)くことにする。実は小僧が「あの客」の本体を確かめたい要求から、番頭に番地と名前を教えて貰って其処を尋ねて行く事を書こうと思った。小僧は其処へ行って見た。ところが、その番地には人の住いがなくて、小さい稲荷の祠があった。小僧はびっくりした。−−とこう云う風に書こうと思った。然しそう書く事は小僧に対し少し惨酷な気がして来た。それ故作者は前の所で擱筆する事にした。
これに対する解釈は、もし仙吉がAのでたらめの住所(稲荷神社)に行ったとすると、伊勢側からすると「狐に化かされた」となり、当時天皇のもとで軍に入って奉公することが当たり前だった時代に「天皇(=伊勢)」に奉公できなくなるとしています。
視点は面白いです。
他の作品も神話等が根底にあるような解釈がなされます。
志賀直哉の作品には余白が多いため、さまざまな解釈が可能になるのでしょう。
でも、ちょっと寄せすぎている感があり、たまらなく気持ち悪くなりました。
私はもっと純粋な読み方がいい。
志賀直哉はただただ日々ある情景を描き切っただけなのではないか。
もちろん志賀という人の人生観や世の中の捉え方がそこから滲み出てくるため、意図しないものが表現されていくことはあるとは思います。
こういう読み方もできるよね、という意味では参考になりました。
ただ、この手の本は自分には合わないということもわかりました。
