「解像度」という言葉がキライです。
画像の解像度ではなく、仕事において「解像度を上げていこう」といった具合に使われます。
詳細に、具体的にしていくといった意味合いです。
なぜこの言葉を使う必要があるのだろうか。
「対象顧客のニーズを具体的にしていこう」で十分伝わるのに。
ある小説で思考停止状態をこう表現していました。
「脳が溶けていく」
比喩としてもわかるし、こういう言い回しをする人も多いのでしょう。
でも、読んでいて気持ちがいいものではない。
本当に溶けているなら仕方ないですが。
近現代の文学を読んでいると、今では使われない表現が出てきます。
こういうのが案外しぶくて良いのです。
「〜して了(しま)った」
たとえば、「食べてしまった」を「食べて了った」と書いている。
この閉じた感じがいい。
「〜の考があった」も惹かれます。
「考え」ではなく「考」と、送り仮名がないのでちょっと古風です。
「こう」と読みたくなる。
当時はこれが一般的な表現だったのかもしれませんが、今こういう字面を見ると新鮮です。
言葉の好き嫌いは理屈ではないのでしょう。
よくわからないんだけど、なんだかイイ。
ただただ、イヤ。
「国境の山々はもう重なりも見分けられず、そのかわりそれだけの厚さがありそうないぶした黒で、星空の裾に重みを垂れていた。」(川端康成『雪国』)
対象にしっかり近づいた言葉や言い回しが好きです。
