『ジュリアス・シーザー』(シェイクスピア/小田島雄志訳/白水社/1983年)

シェイクスピアの作品です。
「おまえもか、ブルータス!」(第三幕第一場)で有名ですね。
25年ぶりに読み返しました。
古代ローマの英雄ジュリアス・シーザーが王になるかどうかのとき、友人でもあったブルータスはキャシアスから担ぎ上げられ、仲間とともにシーザーを暗殺します。
シーザーがこのまま君臨すると、圧政により国がひどいことになると危惧したためです。
ブルータスはシーザーに個人的な恨みはなく、逆にシーザーを愛してはいましたが、国を思う気持ち、彼なりの正義でもって実行に移します。
暗殺後の演説でブルータスは市民から理解を得ましたが、そのあとで演説したシーザー側にいたアントーニアスが市民の心を掴んだことにより、ブルータスやキャシアスは敵とみなされます。
アントーニアス側とブルータス側で戦いがはじまり、追い詰められたキャシアスは自害、ついでブルータスも自害します。
読んだあとの率直な感想は、「よくわらかん」でした。
この戯曲は何を伝えたいのだろうか?
なんとなく、登場人物全員が空回りしているという印象を受けました。
誰も地に足がついて考えと行動が一致できていないというか。
それぞれに何かしらの思いはあったのかもしれないが、最終的には何も残らず、ただ混乱と破壊が起きただけ。
『暴君 – シェイクスピアの政治学』(スティーブン・グリーンブラット著)の中で、こういう記述があります。
「この悲劇ほど、政治的不安、混乱、暗中模索ぶりを徹底して表象したものはない。シーザーが暴君のような権力を掌握するとまずいからと、政治体制の崩壊を防ごうとした結果、国家の崩壊を招いたのだ。共和政を守ろうとしたまさにその行為が、共和政を破壊した。シーザーは死ぬが、この劇の最後で、シーザー主義とも呼ばれる独裁君主制は勝ち誇ることになる。」(p. 202)
なんとも皮肉なことです。
仮に善意から行動に移したことだったとしても、何も変えることができず、一番避けたかった独裁君主制が残る結果となってしまった。
これが社会の構造なのかもしれません。
歴史を振り返っても、このパターンは何回も出てきますよね。
個人的に面白かったのは、この戯曲を読んでいて、誰にも共感できなかったこと。
そして、読後感がスッキリしなかったことです。
おそらく、それがこの作品の狙いでもあり、また魅力なのかもしれません。
