『本質観取の教科書』(苫野一徳、岩内章太郎、稲垣みどり著/集英社/2025年)

哲学的対話とは何か?
このテーマに関心があり本書を手に取りました。
「本質観取」とは、対話を通して物事の本質を探っていく思考法のことです。
本質観取とは何か、それをどう行えばよいかがわかりやすく解説されています。
本書では、哲学的対話をこう表現しています。
「さまざまに異なる立場の人びとが、互いの違いについては“相互承認”し、その上で誰もが確かめて納得できる“共通了解”に向かっていくこと。」(p. 33)
人はそれぞれ自分の枠で物事を捉えています。
お互いに主張し合うだけでは平行線のままになってしまう。
それぞれの「体験」を持ち寄りながら、共通するものは何かを探っていく。
共通するものを「キーワード」として言葉にし、お互いに了解する。
これが相互理解の一歩となる。
このような対話をしていかないと、「力」で押し切らざるを得なくなってしまいます。
本書を読んでいる途中で、ソポクレスの戯曲『アンティゴネ』を読みました。
『アンティゴネ』に出てくるクレオンとアンティゴネは、それぞれ「正しさ」の捉え方が異なります。
クレオンは法や秩序といったものを「正しさ」とし、アンティゴネは愛情や肉親への思いなどを「正しさ」とする。
お互いの「正しさ」がぶつかり、「共通了解」がなかったために、最終的には破滅に向かう。
この2人が本質観取をしたらどうなっていたか?
クレオンもアンティゴネも「守りたいもの」「正しく生きたい」というのは共通する。
謀反を起こしたアンティゴネの兄の亡骸を丁重に埋葬したくないという王としてのクレオンの考えは理解できる。
兄の亡骸を埋葬したいといったアンティゴネの心情も理解できる。
2人が共通了解できたとしたら、丁重ではなくとも簡易的にでも亡骸を埋葬することになったのかもしれない。
でも、王の命令に背いたアンティゴネを罰しないと国としての運営(秩序)が成り立たなくなる。
お互いに納得できるものへと落ちついたとしても、本当に国家運営的には最善の解が見出されるのだろうか。
となると、確かに本質観取は有効な手法だと思うし、大切にしたい部分ではありますが、最終的には効かないんではないかという疑問が残ります。
対話がなければ破滅に向かう。
対話を通じて行動変容があれば共生・協調はできる。
でも、結局は自分が変われるかどうかであり、何かを手放さない限りはうまくいかないのではないか。
対話(本質観取)には限界があるのかもしれない。
万能ではないということです。
この気づきは大きかったです。
私は組織支援で「対話の大切さ」を訴えています。
職場という環境であれば、関わる人たちがある程度の妥協をし合いながら協調することは可能だと思います。
対話を重ね、相互理解を深め、行動を変える。
その場だけ、仕事として、行動を変えればいい。
でも、限界があることは認識しておかないといけない。
浅はかに「対話で組織は変わる」なんて言ってはいけない。
本書と『アンティゴネ』をリンクさせながら思考したことで、いい気づきが得られました。
限界を認識した上で、どう対話を重ねていけるか。
理想論ではなく、現実的なアプローチを深めていきたいです。
本書を読んで、本質観取を実際に体験してみたくなりました。
